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人が死ぬ時は色々ある。
物理的な話もそうだが、人として死ぬ瞬間についてよく考える。
好きでもない本を親に押し付けられ、それを読まされた時。周りに合わせて自分の色を見失ってしまった時。仕事をする為に生きているよう思えた時。
大切な人間に別れを告げる時。
そしてまた別の誰かと夜を過ごす時。
上げればキリがない。
そう考えると自分は大体1日に1回は死んでいることになる。
今日、とても真面目に働く人の悪口を聞かされた時。
それも"キモい"というだけが理由の悪口。
確かにクセのある女性だが、誰よりもひたむきで常に仕事のこともそう、自分の過労を労うような言葉をかけてくれるような人。
その正義を貫いたような"真面目"が、誰かの粗を探し始め、周りの人間を蔑むような発言をしてしまうことも確かにある。そんな人はいつの時代も嫌われ、理解なんて誰もしようとしない。本音でぶつかり合える人間は少ないだろうし、きっと孤独なんだろうなって。
そんなのただの個性じゃないか。
そんな人の悪口をいつものように聞かされ、相槌を打って愛想笑いしてるだけのあの一瞬。
今日も死んでしまったような気分になった。
結局自分は自分のことしか考えてないからそこで愛想笑いをしてしまうのかな。
昔から人の感情を汲むことしか取り柄がなかったのに、そこで何も言えないのは自殺と同じか。
いつも通りやる気のない1日が過ぎた。
あの時何も言わない自分に嫌気がさして、苦しくなった。ならなんと言えば良かったのか。
逆説から入るよりはきっとその悪口に一度共感をした方が相手は後に納得するだろう。
一度共感した瞬間にまた半分が死ぬ気はするが、完全に死ぬことは避けられたかもしれない。
その女性も自分も。
やっぱり人間ですから自分が第一になってしまうことは真理なのでしょうか。
それもただ死ぬことを避けているだけのエゴなのではないか。
相手も同じ人間なのに、世界の中では皆蟻のような存在なのに、この職場の小さなコミュニティの中でも広いネットワークが形成されている。
でも自分を死なせてしまったら、救えるものも救えなくなる気がする。大切な誰かを失いたくない。
緩く首を絞められる感覚が初春を知らせてくる。